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行く先々で俳人と② 上田五千石/復本一郎【連載随筆】

県立神奈川近代文学館

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」157号(2022年7月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈連載終了まで〉


左から上田五千石、筆者。

復本一郎・国文学者

 私が静岡大学の教壇に立ったのは、昭和五十四年(一九七九)のこと。翌年には、富士市にお住いだった上田五千石ごせんごく氏をお訪ねしている。私の大学時代の恩師、英文学者の虎岩正純先生が、五千石氏と富士高の同級生だったことによる訪問だったと思う。初対面の五千石氏の印象は、まさしく熱情の人。俳句の面白さを口角泡を飛ばして語られて、倦むことを知らなかった。三十八歳の私は、氏の熱情のとりことなってしまったのだった。そして、当時考えていた「」と「はれ」の俳句論をお話ししたのだった。氏は、首肯して下さった。二人は、意気投合し、急速に親しくなった。翌五十五年九月には、当時短大生だった愛娘日差子ひざしさん(今は、結社誌「ランブル」の主宰として活躍されている)同道で、静岡市大谷の寓居を訪ねて下さっている。微醺を帯びた五千石氏が、日差子さんに墨を摺らせて書いて下さったのが、

  誕生のすぐと登高とうこうこころざす  五千石

の一句である。私の「」と「はれ」の論を体して下さっての作品であり、私を大よろこびさせて下さった。一句が書かれている色紙の裏には、「祝丗八才誕生日 為復本先生 五千石」と記されている。この日、九月五日が、私の三十八歳の誕生日だったのである。一句の季語は「登高」。九月九日、高きに登って無病息災を願う中国の古俗。一句に五千石氏が込めた思いは、氏と私とがわかりあえばいいのであった。私のためだけに作ってくれた作品であり、これが私が言うところの「」の句である。この論を発展させ、一本としてまとめたものが、拙著『笑いと謎―俳諧から俳句へ―』(角川選書、昭和五十九年六月刊)。この本については、近時、比較文学者の川本皓嗣先生が、その著『俳諧の詩学』(岩波書店刊)の「あとがき」の中で「思い返せば、そもそも俳句の文体論的・構造主義的考察の可能性に目を開かれたのは、復本一郎『笑いと謎―俳諧から俳句へ』(角川選書、一九八四)という歯切れのいい俳句論と、続いて乾裕幸『ことばの内なる芭蕉』(未来社、一九八一)という革新的な俳句記号論に出会ったおかげだった」との思い出を披瀝して下さっている。

 この『笑いと謎―俳諧から俳句へ―』が出た時には、五千石氏は、すでに東京都世田谷区成城四丁目に転居されていた。出版直後の六月二十四日、福井貞助先生、阿辻哲次氏(静岡大学時代の同僚)等が発起人となって清水市(当時)三保海岸の羽衣ホテルで出版祝賀会を開いて下さった。五千石氏は、わざわざ東京から駆け付けて、素晴しいスピーチをして下さったのだった。この本の巻頭に置かれているのが〈「」と「はれ」〉の章。続いて〈笑いと謎〉の章。「」と「はれ」もそうであるが、「笑い」や「謎」についても、機会あるごとに五千石氏に話しをし、氏は時に、それを作品として具体的に示して下さった(先の〈誕生の〉句のように)。こんな至福の体験を持っている研究者は、まずいないのではなかろうか。実作者である五千石氏との語らいによって、私自身の頭の中で構築した俳諧・俳句世界が、五十代になったばかりの五千石氏の作句意欲を多少なりとも動かし得ていたとしたら、まさに研究者冥利に尽きると言ってよいであろう。

 上田五千石という異才に巡り合っての、静岡での丸四年間は、私自身の青春でもあった。十歳年長のかけがえのない友であった。五千石氏は、よく富士から静岡へとおでだった。激論の場は、静岡市内の居酒屋「あかさたな」であり「田舎家」だった。大いに飲んだ当時がなつかしい。良友、俳人協会理事の加古宗也氏(西尾市住)を紹介して下さったのも五千石氏だった。加古氏とは今も親しい交流が続いている。  

  


〈機関紙157号 その他の寄稿など〉
【座談会・堀内誠一展】
堀内さんの思い出―谷川俊太郎、堀内花子、堀内紅子
【寄稿・平井呈一生誕120年】
房州山人、平井呈一の全体像をもとめて―荒俣宏
【神奈川とわたし】
私の中を流れる三つの川―太田靖久
【所蔵資料紹介41】
獅子文六 宮田重雄宛書簡(一)


◆連載第一回「行く先々で俳人と① 横山白虹」も公開中です。


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