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行く先々で俳人と③ 古沢太穂/復本一郎【連載随筆】

県立神奈川近代文学館

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」158号(2022年10月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈連載終了まで〉


古沢太穂(左端)と筆者(右端)。

復本一郎・国文学者

 平成元年(一九八九)四月、新設された神奈川大学経営学部(平塚)に移籍のため、十七年ぶりに横浜に戻った。横浜の家には母が一人でいた。三人の私の子どもたち(いずれも男子)が、ちょうど小学校一年、中学校一年、高等学校一年の学齢期を迎えたこともあっての決心であった。静岡時代の一番の学問的思い出は、赤穂義士俳人の一周忌追善集『橋南はしみなみ』(宝永二年刊)を入手したこと。版本でありながら、伝本は、私の架蔵本のみという天下の本。蔵書家で知られる柳亭種彦も「このさうし上ノ巻印本、下ノ巻写本ノ抄録ニテ、全本未見」(『柳亭種彦俳書文庫目録』)と記している。

 そこで、十七年ぶりの横浜である。横浜駅周辺を中心に、街の様相が一変してしまっており、文字通りのといった具合であった。そんな中で、横浜にあった(今も続いている)俳人たちの集まり「横浜俳話会」で話をせよとの連絡があった。お電話を下さったのは、当時、会長でいらした佐伯昭市先生からだったと思う。何を話したかは、覚えていないが、多分、持論であった俳文芸における「」と「はれ」についてだったのではないかと思う。

 話が終って出入口で待っていて下さったのが古沢太穂たいほ先生と、諸角もろずみせつ子さんだった。太穂先生、七十六歳、私四十六歳。何と今の私よりもお若かったのである。どうりでお元気で行動的でいらっしゃった。その日は、そのまま野毛にあった居酒屋「武蔵屋」に連れていって下さった。記憶が定かでないが、石段を二、三段上った仕舞屋しもたや風の古い店であったように思う。老姉妹でやっていた。「コップ酒三杯まで」と教えて下さったのは、太穂先生だった。その当時、私は日本酒をまったく嗜まなかったので、ひたすらビールを飲んだのだった(ビールにも制限があったのかどうかは、覚えていない)。今となっては、貴重な体験だった。太穂先生は、鞄の中から新日本文庫の一冊としての『捲かるる鷗―古沢太穂句集』を下さった。巻頭部分に「太穂」と署名のある一本である。後日、繙読すると、そこには、私の愛誦句となる、

  坂底はまた一つ町ひいなの夜
  若鮎というが水過ぎ加賀にわれ
  みぞはぎ淡し妹十九貧に逝きし

等の句が収められていた。爾来、太穂先生が平成十二年(二〇〇〇)、八十六歳で御逝去になられるまで、濃密な交流を続けさせていただいた。文字通り大人たいじんの風格がおありであった。思想的な話をされたことは一度もなかったが、私の中から一種の偏見ともいうべきものが、お話をするたびに薄らいでいった。思想・心情の前に、まずは人間性であるということを度重なる酒席の場から教えていただいたことであった。

 一つの面白いエピソードを思い出した。いつのことだったかは、全く思い出せない。夜九時ごろのこと。太穂先生からお電話があった。「坪内稔典さんと西口で飲んでいるのですが、出てきませんか」とのこと。稔典さんとは、同郷(愛媛県)、旧知の仲。それに太穂先生からのお電話ということで、髭剃り等の身支度をし(家にいる時は、髭など剃らないで、実にむさくるしい恰好をしているので)、タクシーで駆け付けた。今とはまったく違った、ごちゃごちゃした鶴屋町寄りのスタンド席の居酒屋街だったが、すぐわかった。ところが、次の用事があったのかどうか、肝心の稔典さん、ものの十分たつかたたないうちに姿を消してしまった。太穂先生、私に対して済まないと思われたのであろう、河岸かしを変えて御馳走をして下さった。同席のせつ子さんも交えて、三人で憤慨し合った。その時、「神奈川地区現代俳句協会」の封筒に一句、書いて下さった(今も持っている)。

  よこはまやばかー稔典何故冬灯ふゆともし 太穂

  


〈機関紙158号 その他の寄稿など〉
【寄稿・川端康成展】
でたらめに書くための修練-堀江敏幸
【寄稿・川端康成展】
生きてゆくために-田中慎弥
【展覧会場から・川端康成展】
「伊豆の踊子」旅芸人との交流
【神奈川とわたし】
“富士山うら”の家-黒田夏子
【所蔵資料紹介42】
獅子文六 宮田重雄宛書簡(二)


◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)


◆連載「行く先々で俳人と」第一回「横山白虹」第二回「上田五千石」も公開中です。


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