一葉、その内なる声/藤沢周
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一葉、その内なる声/藤沢周

藤沢周・作家

 一葉――。
 その人をよく知っている、などと言ったら、一笑に付されるだろうか。あるいは、お叱りを受けるか。
 お札の肖像にもなった明治の「文豪」・樋口一葉の作品や日記を、すべて余す所なく読んだわけでもない者が、「知っている」などと、不遜もいいところであろう。だが、一葉の文章を読むたびに、この人は「文豪」なる名称など似合わぬ人で、私たちの母であり、妻であり、姉であり、妹であり、娘であり、恋人であり、友であり、叔母でもあり、姪っ子でもあるような女性に感じられて仕方がないのだ。一葉の書いたフレーズが脳裏をよぎる時に、「誰が言っていたのだっけ?」と記憶を探り、身近な女性たちの顔を浮かべた末に、ようやく樋口一葉だと気づくのである。
 二五歳で逝った「母」や「姉」は、「女子おなご温順すなおにやさしくば事たりぬべし」と書く(「やみ夜」)。「生中なまなか持ちたる一節ひとふしのよきにしたがひてよきは格別、浮世の浪風さかしまに当りて、道のちまたのタ筋に、いざや何処いずこと決心の当時、不運の一あおりに炎あらぬかたへと燃へあが」るとも。「女性は素直で優しいのが一番。才気や意志があってもねえ、調子の良い時は、まあいいとして、運が悪くなれば、どんな炎に煽られるか」と諭すかのようなのだが、あくまで表面上の文句である。
 その「浮世の浪風」とは何か。「不運の一煽り」は、一体誰がしむけることか。そして、「事たりぬべし」と偉そうに上から押しつけてくる価値観は何? と胸の内で想いをたぎらせている陰画にこそ、一葉の素顔がある。口元に淡い笑みを湛えながらも、貧しい生活の中で商いをこなして一家を助け、時間を見つけては小説を書き、せめて自らの心の栄養のために和歌を学び……。過酷な時代と社会に抗して頑張りを見せる一葉の姿は、ジェンダーギャップ指数が世界的に最低に近い現代の日本で、必死に生き抜こうとする女性たちや我々庶民の姿そのものではないか。
 「すきなもの嫌ひなものなどいふものはなかつた人でして、人に逆らふなんてことは殆どなかつた人でございます。いやな時には自分が泣いてしまえばすむといつておりました」と、一葉の妹・くには「姉のことども」で書いている。一葉没後、その原稿や日記の整理保存に努めた、最も姉を知る人の言葉であるが、その「泣いてしまえば」の様々な涙の果てに、それでも毅然と前を見据えていた一葉の眼差しの澄み方をも見守っていたはずだ。その視線の先――。
 「おそろしきは涙の後の女子おんなごころなり」(「やみ夜」)
 三従七去さんじゅうしちきょなどの悪しき因襲を引きずっていた時代において、悲嘆の底に落ちて血涙を流した後に秘めた、諦念と怨と覚悟のフレーズは刃のようである。その刃先が筆となり、傑作と言われる言葉の数々を連ねたのである。また、現代においても然り。社会や差別に向けた、女性たちや人々の想いを表わした言葉でもある。SNSで話題になった「保育園落ちた日本死ね」との匿名のメッセージも、待機児童問題にまったく着手しない、この社会と政治の腐敗しきった状況への刃であり、一葉の言葉と同じであろう。
 「闇桜」「たま襷」から始まり、「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」などの傑作群を物した一葉は、それでも自負することなど皆無だったという。ただ、一度だけ、俯きながら自らの作品の「彼所あそこが肝腎なところです」と呟いた所があったという。最後の小説となった「われから」の中の一部分。少壮政治家の妻であるお町が、自らの血と業を抱えながら、若き書生と夫との間で苦悶する小説だが、邸で宴が行われている時に、その喧噪から逃れるように庭の祠へと出たシーンである。
 「夜あらしさつと喜連格子きつれごうしおとづるれば、人なきに鈴のからんとして、幣束へいそくの紙ゆらぐも淋し」
 座敷でおこなわれている酒宴の声を遠く聞きながら、俗世間からさえも突き放された自らの孤独の冷えに、「心細き事えがたうなりて、締つけられるやうな苦るしさは、胸の中の何処どこともなく湧きいでぬ」のである。
 これは明治の物語ではない。現在も変わらず、一葉の実存はそのまま、あなたでもあり、私でもある。その内なる声に、さらに耳を澄まさねばならぬと思う。

藤沢周(ふじさわ・しゅう)
1959年、新潟県生まれ。法政大学文学部卒業。書評紙「図書新聞」の編集者などを経て、1993年「ゾーンを左に曲がれ」で作家デビュー。1998年「ブエノスアイレス午前零時」で第119回芥川賞受賞。著書に『刺青』『オレンジ・アンド・タール』『さだめ』『雨月』『箱崎ジャンクション』『幻夢』『心中抄』『キルリアン』『波羅蜜』『武蔵無常』『世阿弥最後の花』、2017年映画化された『武曲』など多数。樋口一葉「やみ夜」の現代語訳(1997年)がある。元法政大学教授、神奈川文学振興会理事。

※本記事では、「樋口一葉展―わが詩は人のいのちとなりぬべき」展覧会図録の巻頭寄稿を樋口一葉展の会期中〈2021年10月2日(土)~11月28日(日)〉に限り公開しています。図録は当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1冊=900円)
 その他の寄稿:胸つぶつぶと鳴る ―朝井まかて/それまでの一葉、それからの一葉 ―田中優子

機関紙「神奈川近代文学館」154号は樋口一葉展特集!
寄稿:樋口一葉と感染症 ―関礼子/「お町」の悩みかた ―永井愛
当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

◆特別展「樋口一葉展―わが詩は人のいのちとなりぬべき」
【会期】2021年10月2日(土)~11月28日(日)休館日:月曜日
【開館時間】午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
※ご観覧は日時指定事前予約制です。詳しくは当館HPをご覧下さい。


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