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港の見える丘に立って/千木良悠子【寄稿・橋本治展】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」164号(2024年4月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年6月2日まで〉



「港の見える丘公園」から望む横浜ベイブリッジ

千木良悠子・作家、演出家


 二〇二四年三月末、「帰って来た橋本治展」が神奈川近代文学館で開催されると知り、不思議な気持ちでいる。文学館のある「港の見える丘公園」は、橋本治が最も愛した「桃尻娘」シリーズ全六巻のラストシーンの舞台、、、、、、、、、だからだ。

 私は十代の頃からの橋本治の読者で、もうすぐ評論集を出版する。「桃尻娘」は若者の話し言葉文体で人気を博した青春小説だが、私はその背後に「近代の限界を乗り越える」というテーマがあったと考えている。第五巻までは榊原玲奈たち四人の若者が、近代文学の主人公が苦悩した孤独やエゴイズムの枷から解き放たれ、幸福を獲得する物語。第六巻『雨の温州蜜柑姫おみかんひめ』はこの巻の主人公の醒井さめがい凉子が、横浜や軽井沢やオックスフォードを舞台に西洋文化を再受容して「近代のやり直し」をする物語と読解した。

 そうなると「港の見える丘公園」は象徴的で、この丘は幕末に横浜が開港した際にはフランス軍とイギリス軍の駐屯地になり、太平洋戦争後には進駐軍に接収されていた。つまり幕末と戦後の二度も西洋にやって来られた、「近代」と「現代」の始まりを示す場所なのだ。第六巻の最後で、醒井凉子は木川田源一とこの丘に立ち、刊行時に開通したばかりの横浜ベイブリッジ、つまり「現在」を表す橋を見る。木川田源一が「あの橋見てると、幸福ってあるのかもしれないなって、そんな風に思うの」と言い、醒井凉子も同意する。

 幕末や戦後から「現在」を見たら、どんなに希望に溢れていることだろう。二人の姿が新たな時代に未来を夢見た過去の人々の姿と重なる。今の日本の先行きは明るいとは思えないが、「行き詰まったらスタート地点からやり直せばいい、選択肢はいくつだってある」と語り手は囁く。『雨の温州蜜柑姫』のラストは私にとって今なお世界最高の名文だ。

 橋本治は『雨の温州蜜柑姫』を書いた時点で「港の見える丘公園」内に近代文学館があるのを意識していた可能性はないか、と勘繰ってしまう。彼は一九九〇年にこう書いていた。


  私は大学の文学部の国文学科を卒業してるから、肩書としては「国文学士」だったんだけど、それははっきりしてるんだけど、俺、〝作家〟だったりしたから、「文学者」だったんだ……。
(少し頭をかかえてる)(中略)
 死んだら近代文学館に自筆の生原稿が飾られることになるんだなァ……。そんなことにならないように、自筆の生原稿は全部ちゃんと処分して捨てちゃってるけど……。(中略)俺なんかが〝作家〟だもんなァ……。あきれちゃうよなァ……。(中略)
 という訳で、これで大方の人間はあきらめられたことだろうから、ここからいよいよ〝文学篇〟の始まりである。こうやって文学地図は書き変えられて行くのだから、しょうがないったらしょうがないのである♡
 わーい!」
 

(「解題=俺が『文学者』なんかだったりしたら困っちゃうよなァ……」
『橋本治雑文集成 パンセⅢ 文学たちよ!』)

 原稿を捨てていたという発言にドキッとするが、実際は生原稿の多くは逝去後に近代文学館に収蔵されたと聞いている。ついに橋本治は「文学者」になってしまった。

 この評論集では『いもやま婦女おんな庭訓ていきん』とヴォネガット、近松門左衛門と久生十蘭の共通点が論じられ、江戸川乱歩やアガサ・クリスティーの構造が分析され、山崎豊子や有吉佐和子が優れた大作家として批評される。既存の日本文学の枠組みは、近代という短い時代に性急に形成されたものを土台としており、橋本治が愛した江戸歌舞伎や浄瑠璃から近現代の娯楽要素を備えた優れた小説に至るまで、一般市民の文化に芽生えた豊かな知性を位置づける余地がまだ十分にはない。だが本当に「近代化」を達成するのに必要なのは、そういう知性の意味を拾いあげて位置づけることではなかったか。そんなことを考えていたからか、橋本治は小説評論含め三百冊近くの本を書き、『古事記』『枕草子』『源氏物語』『平家物語』等、錚々たる古典の現代語訳を手がけても自分を「文学者」とは言わなかった。つねに市井の人の側に立ち、日本の歴史や文化を現代の視点から語り直して、幅広い読者の啓蒙に努めた。

 もし私たちが彼を「文学者」と見なすのであれば、改めてその著作を読み直して「文学地図」を書き換え、「近代のやり直し」を引き継ぐことを彼に約束したも同然、ということになりはしないか。大仕事すぎてこっちが「困っちゃう」が、橋本治は原稿やゆかりの品々とともにこの丘にいて、「後はよろしく」と笑顔で見守っていてくれる。今回の展覧会は近代文学館が企画し、ご友人やご遺族の資料寄贈をもとに開催されると聞いたが、「まさか本人が水面下で仕組んだ壮大なイタズラ?」と私はこっそり疑っている。

 今再び醒井さんや木川田くんと「港の見える丘」に立って、幸福な未来を夢見たい。「何度でも、またここから始めたらいい」と心強い声をかけられている気がして、逝去から五年経つのに、まだ驚かされる。



〈機関紙164号 その他の寄稿など〉
【寄稿・橋本治展】
若き日の橋本治―馬渕明子
【展覧会場から】
幻の「桃尻娘」応募原稿
【寄稿・庄野潤三展】
おいしい。うれしい。よろこぶ。―中島京子
【連載随筆】
火の言葉だけが残った① 芥川龍之介、名作「蜃気楼」―吉増剛造
【所蔵資料紹介48】
尾崎一雄・尾崎士郎交友書簡(3)

◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

https://www.kanabun.or.jp/webshop/1/

◆神奈川近代文学館公式noteでは、機関紙掲載記事の期間限定公開や講演会・イベントの配信をしています。

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