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情熱と審美眼/荻野アンナ【理事長就任にあたって】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」165号(2024年7月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年9月29日まで〉


荻野アンナ・作家、理事長


 理事長就任の日、職員の皆さんにパリの古本屋の話をした。頂点の「法定エキスパート」からセーヌ河畔の屋台まで、取材で廻ったことがある。複数の店で同じ単語と出会った。情熱パッシオン審美眼グーである。情熱を持って、見る目を育てていかなければならない。文学館も、そういう類のお仕事。一緒に目を育てましょうと話をまとめたが、同じ日に自分が目から鱗の体験をするとは、この時はまだ知らない。

 新入りの職員は四人で、全員が女性だった。新卒の初々しい人からキャリアのある人まで揃っている。彼女たちと一緒に「バックヤードツアー」に参加した。最初に開けられた秘密の扉は燻蒸室だった。入ってくる資料はここでまず煙の洗礼を受け、虫とオサラバする。それからは収蔵庫の巡礼となった。部屋が変わるたびに靴を脱ぎスリッパになる。その繰り返しで気がついた。私もそうだが後の四人も着脱しやすい平底の靴を履いている。「ツアー」で靴を脱ぐことになるという前もっての知識はない。ハイヒールで歩くには広すぎる職場に、最初から順応しているのかもしれない。

 印象に残ったのは井上靖記念室である。部屋の中央に原稿とメモが展示してある。私もメモは取るほうだが、ただでさえ汚い字が、慌てているので判読不可能に近い。全文がひらがなで、漢字であるべき部分に下線が引いてあったりする。井上靖のそれは、清書をした後であるかのごとく整っている。教養の違いはこんなところにも現れる。

 蔵書は電動書架に収められている。懐かしい本の匂いは図書館そのものだが、博物館ならではの配慮があった。本の帯まで保存してあるのだ。帯に付いている惹句もまた貴重な資料の一部。傷まぬように上から紙が掛けてある。

 広大なバックヤードから、資料の蒐集・保存・活用に対する強い情熱を感じた。その情熱に応えるべく、目を育てていかなくてはと、自分の言葉に自分が後押しされて、理事長の初日は終わった。



〈機関紙165号 その他の寄稿など〉
【寄稿・古田足日展】
ホタルブクロの咲く野へ―橋本麻里
【展覧会場から】
「手をつなごう」からの出発
【追悼・三木卓】
「ミッドワイフの家」とお相撲―辻原登
【連載随筆】
火の言葉だけが残った② 漱石、一本の光―吉増剛造
【所蔵資料紹介49】
須賀敦子 父母宛書簡(1)

◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

https://www.kanabun.or.jp/webshop/1/

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