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山田宗睦さんの笑顔/蜂飼耳

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」167号(2025年1月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2025年3月31日まで〉


蜂飼耳・詩人、作家、評議員
 

 二〇二三年の師走に開かれた神奈川近代文学館の懇親会に、山田宗睦さんは参加されていた。笑顔で「あと二ヶ月で白寿なんですよ」と言われた。「百から一つ足りないというので白なんですね」と、白寿という言葉の意味を付け加えられた。とてもお元気そうで、白に一つ足した百まで、その先までも、軽々と迎えられることと思った。なくなられたと知ったとき、脳裡に浮かんだのは懇親会で最後に接した笑顔だった。長い歳月にわたり、数多くの仕事をした後、人生のさまざまな重荷をおろして悠々と過ごされている人の、きれいな笑顔。山田さんの笑顔をもう拝見できないと思うと、寂しさが湧き上がる。

 山田宗睦さんといえば、まず日本書紀の研究だ。「自分の専門は文学そのものというわけではないけれども、こちらの文学館に関わることになって」と話してくださった。「ここの懇話会の幹事長をしてきたけど、そろそろ誰かに代わってもらいたいと思って」と。交替してほしいという打診をいただいたのは、その少し前のことだった。九十代後半にもなられた方からの依頼とあってはお断りしにくく、引き受けさせていただいた。というか、うっかり引き受けてしまったというのが正直なところだ。

 その後しばらくして、おたよりとともに著書が届いた。『まち・みち・ひと・とき』(風人社、一九九六年)、『雑文(くさぐさのふみ)』(風人社、二〇一七年)。おたよりには、懇親会でも語ってくださったご自分のこれまでのことが簡潔に記されていた。いま、手もとで改めて読むと「私はカンレキの時――今から三七、八年前――評論家その他をやめ、日本書紀の研究だけを残しましたが、これも十年ほど前『日本書紀の研究ひとつ』と公刊して、以後、日記がわりのように『雑文』を書きつづっています」とある。まるで自己紹介のように書いてくださっていた。

 『まち・みち・ひと・とき』というおしゃれなタイトルの本は随想集といえばよいか、すてきな文集だ。幼少期から現在までに縁のあった場所、具体的には下関、稚内、函館、水戸、辻堂などについて。また、歴史、哲学、文学、出会った人たち、忘れがたい思い出について。「わたしの人生のさいしょの記憶は、汽車がレールの継ぎ目に立てる音である。父につれられて、下関から厳島まで旅をした。三歳のときだ」。旅の音が聴こえる。

 学生時代、愛読する堀辰雄に手紙を送ったエピソードについて語る文章もある。「いちどだけ訪ねようと思い、追分の油屋の前まで行ったが、横目でみて通り過ぎてしまい、それであきらめてしまった」。だが、そのおかげで追分村で初めて道祖神というものに遭遇し、以降、関心の対象となったという。

 テーマは広く硬軟自在、その文章の語り口はやわらかさの中にびしっと筋の通るものを秘めている。出会うものすべてを大切にできる人柄が滲み出ていると思う。山田宗睦さんの仕事について、これからも読みたい。考えたい。後からゆっくり受け取るのだとしても、本はどこへも逃げていかない。そのようなことを繰り返し考えながら、いま、穏やかできれいなあの笑顔を思い出している。


山田宗睦氏 観桜の会で 2012年4月7日 
  •  山田宗睦氏は、昨年6月17日に逝去。99歳。1988年から財団評議員、理事、常務理事を歴任、2011年からは神奈川近代文学館懇話会幹事長を務められた。


〈機関紙167号その他の寄稿など〉
【新春随想】
芝浜など-荻野アンナ
【寄稿・中野孝次生誕100年】
中野さんが書きたかったこと-高橋一清
【寄稿・木下利玄没後100年】
木下利玄資料が物語る「白樺」派の青春-服部徹也
【連載随筆】
火の言葉だけが残った④ 洗い晒した眼の=小林秀雄-吉増剛造

【神奈川とわたし】
ベイスターズと出会った駅-吉野万理子
【所蔵資料紹介51】
種田山頭火 荻原井泉水宛書簡

◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

https://www.kanabun.or.jp/webshop/1/

◆神奈川近代文学館公式noteでは、機関紙掲載記事の期間限定公開や講演会・イベントの配信をしています。

https://kanabun-museum.note.jp/

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