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中野さんが書きたかったこと/高橋一清

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」167号(2025年1月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2025年3月31日まで〉


高橋一清・編集者、松江市文化協会「湖都松江」編集長


 中野孝次さんの担当編集者になったのは、昭和五十六(一九八一)年であった。この年、中野さんは大学教師を辞め、文筆生活に入られた。
 編集者として、役に立ちたいと考え、中野さんに三つの約束をした。一つは、これからの小説執筆にあたり、先輩作家たちと創作の方法について対談を行ってほしい。二つは、連載小説の機会をつくるので担当させていただきたい。そこでは私が知り得た、連載の方法を伝えたい。三つは、これまでに書かれた文章、これから書かれる文章をすべて読ませてほしい。これで作家を知るほか、小説の題材に出会えるからである。
 私は約束を守った。「対談 小説作法」と連載小説「はみだした明日」を「文學界」に掲載し出版するほか、随想集『生きたしるし』を編集、刊行した。この作業を通して見つけた題材で、後に短篇小説を書いていただいた。
 
 中野さんのもとに通った。そうしたなか、中野夫妻の愛犬ハラスが死んだ。十三年間「もう一人の家族」として暮した柴犬との別れを、悲しんでおられるのがわかった。
 その思いを書いてほしいとお願いした。執筆の約束は守られた。昭和六十二(一九八七)年の『ハラスのいた日々』は動物文学としての評価を得て、中野さんにとり初めてのベストセラーとなった。ちなみに、中野さんは、犬だけは「血統が大切」と書いておられる。ハラスの父犬の親は日本一の賞を受けた「倉田のイシ号」であった。「イシ」は柴犬の祖である「石(イシ)号」に由来する。これは私の郷里の石見犬が始まりである。

 その頃、中野さんと宮尾登美子さんを講師に、松江で講演会が開かれた。中野さんと私は、前日から松江に入り、市内のほか出雲大社、日御碕ひのみさきを訪れた。

日御碕で 1987年 撮影・高橋一清

 島根半島西端に立ったとき、私たちの目前で、団体旅行の一人の老女が、絶壁から海に飛び込んだ。突然の出来事であった。引率者が海をのぞき込んだ。私も断崖から身を乗り出し波濤を見たが、中野さんは、まったく関心を示されず去って行かれた。
 講演会の後、中野さんを、私の郷里の石見益田、さらに山口へと案内した。中野さんに画僧雪舟を書いていただきたいと思い、縁の寺院の訪問であったが、これも中野さんの関心を引かなかった。
 車で日本海沿いを走ったとき、沖の高島を望んだ。江戸時代、この島に朝鮮半島から難破船で鼠が漂着し、繁殖した。鼠が共食いして果てるまで、島民は本土に引き上げ無人島になったことを話した。これには興味を覚えられ、後に小説「鯉」として「群像」に発表された。
 また、エッセイ「石見の国、匹見」が「文學界」に書かれた。匹見は中国山地の山間にあり、「過疎」という言葉が生まれたところである。私は、おりにふれて匹見、そしてさらに山奥に入り広見を訪ねていた。このときも中野さんをお連れした。
 森林伐採の人夫はいなくなり、「過疎」としての認定を受けるために、かまどこわした民家を蔦や葛が被う。朽ち果てる、かつての人の住まいを、中野さんは目にされたのだった。
 中野さんに、匹見と山ひとつ西側にある日原にちはら滝谷たきだにの集落も、炭焼きでは生活ができず、人々は村を捨て、いまは廃墟であると告げた。
「その有様を、毎年、水上勉さんは目におさめに来られています」

 このときからであった。中野さんの表情が変わった。以降、旅の間、険しい表情は続いた。夕食をすませると、すぐに部屋に帰られた。中野さんに、作家として、書くべきものとの触れ合いがあったのである。
 中野さんの仕事は変化した。今まで以上に、東西の古典を読み込まれるようになった。そして四年後の平成四(一九九二)年九月、ベストセラーとなる『清貧の思想』が上梓された。

 中野さんの筆記用具が万年筆から、毛筆に変わった平成十三(二〇〇一)年春、私が交わした中野夫妻との話し合いは忘れられない。
「その時は君にすべてをお願いする」
 と言われた。私は、「そんなことをおっしゃらないでください。もっともっと先のことです」と言い返した。
「いや、決めておきたいんだ」
 そうおっしゃるのを聞き、私は「わかりました」と言った。
 そのすぐ後で、中野夫人が部屋に入って来られた。私は夫人に言った。
「いま、先生からうかがいました。私でよろしいんですね」
「よろしくお願いします」
 夫人のその一言に、来る日をめぐり、語り合う二人の情景が思い浮かんだ。――
 中野さんの最期で私がしたことなど、記述することはない。夫人が気丈にもすべてをなされた。
 中野さんが最後の頼みを私に告げ、安堵されたお顔の穏やかであったこと。そして、ベストセラーを着想されたときの中野さんの表情など思い出している。


〈機関紙167号その他の寄稿など〉

【新春随想】
芝浜など-荻野アンナ
【寄稿・木下利玄没後100年】
木下利玄資料が物語る「白樺」派の青春-服部徹也
【追悼・山田宗睦】
山田宗睦さんの笑顔-蜂飼耳
【連載随筆】
火の言葉だけが残った④ 洗い晒した眼の=小林秀雄-吉増剛造

【神奈川とわたし】
ベイスターズと出会った駅-吉野万理子
【所蔵資料紹介51】
種田山頭火 荻原井泉水宛書簡

◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

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◆神奈川近代文学館公式noteでは、機関紙掲載記事の期間限定公開や講演会・イベントの配信をしています。

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