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おいしい。うれしい。よろこぶ。/中島京子【寄稿・庄野潤三展】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」164号(2024年4月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年8月4日まで〉



『庭のつるばら』 2003年2月 新潮文庫 カバー装画・河田ヒロ

中島京子・小説家



 ひさしぶりに、『庭のつるばら』を手に取って読んでみた。

 手元にあるのは新潮文庫で、河田ヒロさんの装丁がとても美しい。

 読みながら、この本の中に何回、「おいしい。」と書いてあるのか、数えたくなってきた。

 じっさい、庄野潤三作品には、おいしそうなものがたくさん登場する。わたしのような食いしん坊は、まず、それが読みたくてページを開くようなものだが、『庭のつるばら』にも冒頭から、「黒豆の納豆や食パン、ガーリックトーストを詰めた缶、にんにくを刻み込んだタレにつけて、焼けばいいようにしたカルビ肉の大袋二つ」が出て来る。「こどもの日」のために、「妻」が「南足柄の長女」に送る宅配便の箱の中身だ。

 しかし、ここで「おいしい。」はまだ、出てこない。最初の「おいしい。」は、静岡の読者から送られてきた新茶の缶をあけて、お茶をのむところに、ある。このページには、はやくも二度目の「おいしい。」が出て来る。お隣に住む相川さんにいただいたピラフを食べながらビールを飲むシーンだ。

 新茶とあんこのお菓子、はちみつを塗ったくるみパン、茹でた新鮮なグリーンアスパラ、おから料理、みがきにしん。それらを食べている描写のあとに「おいしい。」が続く。
「おいしい。」のほかに「うれしい。」、それから「よろこぶ。」というのも多い。

 これらのシンプルな、四文字のひらがながあふれるように書かれてリズムを作っていく文章というのも、珍しいのではないだろうか。とくに、やはり、どこか文学というのは深刻で暗く悲壮感に満ちているべきだという固定観念のある日本で、いっそ、清々しいほどだ。

 そして、この幸福感は、胸の奥のとてもやわらかいところに、触れて来る。

 「山の上の家」に行ったのは、五年前だ。コロナ禍の外出できない期間を挟んでいるせいか、ずいぶん時間が経ってしまった気がする。老齢の母と、留学で日本に来たばかりのフランス育ちの姪といっしょに、特別公開されていた庄野潤三邸をたずねたのは、秋晴れの気持ちのいい日だった。

 母は、車の通る坂道から家に上がる階段を、手すりにつかまりながらスイスイと上った。そのときわたしは、老夫婦が快適に暮らしていた家ならではの暮らしやすさにおどろいた。初めてフランスの家族と離れて、少し心細くなっていたらしい十九歳の姪が、庭のブランコに乗ってみたり、家の中を楽し気に見て回ったりしているうちに、すっかり元気になったのも思い出す。その日のことは、わたしの中で庄野作品の一ページのようなあたたかさで胸に刻まれているのだが、そのように記憶されることになったのは、実際に山の上の家をたずねたからという理由だけによるものではないと思っている。

 山の上の家の家族の物語を読むという体験は、庄野家の物語を自分の物語のようにして読む、ということなのではないか。ひなたのぬくもり、木々や草花に触れた思い出、庭を訪れる小鳥たち、ハーモニカの音、封を切ったばかりのお茶の味、子や孫の成長を見守ること。そうしたものは、ことさら特別なことではない。でも、それをよく味わうことができるかどうかというのは、人それぞれでもある。わたしたちは、庄野家の物語を通して、その味わい方、そのものを知る。そして、それを自分の体験の中からも発見し、「味わう」。

 人はなぜ小説を読むのか、他人の書いたものを読むのかと、考えてみたことがあるのだが、その理由の一つは、そこに人生の味わい方が書かれているからだと思う。庄野潤三は人生の上質な味わい方を、家族小説の形で書いた。

 おいしい。
 うれしい。
 よろこぶ。



〈機関紙164号 その他の寄稿など〉
【寄稿・橋本治展】
若き日の橋本治―馬渕明子
港の見える丘に立って―千木良悠子
【展覧会場から】
幻の「桃尻娘」応募原稿
【連載随筆】
火の言葉だけが残った① 芥川龍之介、名作「蜃気楼」―吉増剛造
【所蔵資料紹介48】
尾崎一雄・尾崎士郎交友書簡(3)

◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

https://www.kanabun.or.jp/webshop/1/

◆神奈川近代文学館公式noteでは、機関紙掲載記事の期間限定公開や講演会・イベントの配信をしています。

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