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こんこんと湧いていたもの/松家仁之【橋本治展図録巻頭随筆】

※本記事では、「帰って来た橋本治展」図録の巻頭随筆を期間限定で公開しています。〈2024年6月2日まで〉


松家仁之・作家、「帰って来た橋本治展」編集委員


 橋本さんは機嫌のいい人だった。怒った顔を見たことはないし、苛立った声も聞いたことはない。

 なにかの説明をするときは少し早口で、独り言のようにつぶやいたり、真顔になったり、笑ったりした。たいていは自分の説明のおもしろさに思わずこぼれた子どものような笑顔に見えたが、ときに「まあ、わからなくても仕方ないけどさ、そういうことなんだよね」という諦めの苦笑いの場合もあった気がする。

 じっと見て(あるいは読んで)、考えることからはじめる人だった。目の前の現実を嘆いたり怒ったりする前に、どうしてこういうことになったのか、その仕組みや因果関係をさぐり、人間のありかたと照らしあわせ、答えを出そうとした。人が怒りはじめるのは「仕組みなんて知ったこっちゃない」と思考停止したときである。橋本さんには怒っている暇などなかったのだ。

 自分の身のまわりが、あるいは自分自身が、どうしてこういうことになっているのか。子どもから大人になりかかるころ、誰でも一度は考えたり悩んだりする。自分の家庭には特別な問題があるのではないか。そう考える場合もあるだろう。橋本さんはどうであったか。

 父は東京の山の手のはずれでお菓子屋を営み、生真面目に働いていた。母は教育に厳しい人だった。妹がふたりいた。幼い頃には住み込みの店員がいたし、叔母たちもいっしょに暮らしていた。六〇~七〇年代のテレビドラマに出てきそうな大所帯の女系家族めいた暮らしの日々もあった。普通の家にある玄関などなく、店先が出入り口だった。小さいころから店番をし、お客さんが入ってくれば「いらっしゃいませ」と言えるようになった。薪割りも手伝った。小銭のぎっしり入った袋を妹とふたり、緊張しながら運ぶこともあった。店で扱う商品は時代の変化とともに少しずつ変わり、父の苦労や工夫を肌で感じた。やがて父は店を閉じ、他人の営む会社に入り、経理部で働くようになった。

 高校二年の三学期、同級生たちがいっせいに遊ぶのをやめて受験態勢へと切り替えたとき、橋本さんはなんとも言えない違和感を覚えた。なぜあたりまえのようにみんな同じ表情になり、同じ目標に向かって態度を変えてしまうのか。裏切られたと感じた。大人への道をおなじようにたどってゆくことはしない、このときそう思ったのではないか。橋本さんのしゃべりかたは、大人には太刀打ちできない、あまりにも真っ当な質問をぶつけてくる子どもの口調のひびきを残していたと思う。大人になるとは(日本においては)「めんどくさいこと」を考えないようにし、黙って社会に適応してゆくことである。

 一浪して東京大学に入るとそこは東大全共闘の時代だった。世の中に橋本治を最初に知らしめることになった駒場祭のポスターは、学部生であった橋本治の、全共闘運動へのひと捻りした共感の表明だとおおくの人が受け取った。私もながらくそう考えていた。ところが橋本さんは、誰もがデモに向かうなか、新宿の映画館の開場を待って黙々と並んでいたし、一九六九年五月、のちに『討論 三島由紀夫VS.東大全共闘』として本にまとめられた伝説の場にも足を運ぶ気配すらなかった。そのような「騒ぎ」をよそに、歌舞伎研究会の活動や絵を描くこと、映画を見ることに情熱をそそいでいた。大学に入ってもなお、橋本さんは孤立をおそれなかった。

 小説を書きはじめたとき、大人になる手前の女子高生を主人公にしたのは、大人に飼い慣らされないで生きることへのこだわりが持続していたことと無縁ではないだろう。物語の「書き手」としての橋本治がここからはじまったのは象徴的なことだった。

 文章を書くようになってから、「どうしてこうなっているのか」の疑問の対象は大人対子どもの枠をあっさり超えてゆく。過去から現代にいたる日本人のありよう全般を考えることになり、日本社会をかたちづくるものの歴史をたどり直すことになる。批評やエッセイの仕事が創作を上回る量になっていったこと、創作のための年表や系図づくりなどの準備におおくの時間をかけたのは、「どうしてこうなっているのか」の疑問を解かないままで物語を書くことはできないと考える橋本さんの一貫した姿勢だった。

 日本語の変遷。話し言葉、書き言葉のちがい。律令制、武家社会、近代国家のシステム。芸能、美術、工芸、建築はその時代をどう映しだしたか。近代文学以前、以後の物語の変容。男であること、女であること。性愛とは、宗教とはなにか――研究者が専門分野として研究するような個々のテーマをひとりで掘り下げ、それらが総体となった日本社会の全体をとらえようとしたのは、そうでなければなにかをほんとうにわかったとはいえない、と考えたからだろう。

 もともと絵描きであった橋本さんは、部分を考えるときも、全体を抜きにして考えることはなかった。このディテールは、全体のどこを支えているのか──すべてを見渡すことのできる人は細部をないがしろにはできない。橋本さんの書くものが長くなっていったのは、細部に息を吹きこもうとする画素数に比例していた。

 橋本さんが現代を舞台にして小説で描いたのは、「普通の人」だった。「普通の人」は時代や社会から逃れられない。罪を犯した人や、世から外れた人も、もとをただせば「普通の人」である。そこにいたるまでに経験した道のりを丹念にたどり、とりかえしのつかない物語が胚胎するまでの息のつまるような現場を、その時代を、真正面から見届け、ありありと伝えた。

 ばかばかしい冗談を機嫌よく話しつづける橋本さんをいまもよく思いだす。お父さんの葬儀の喪主挨拶で、父の思い出を語りながら泣いていた橋本さんの顔と声も忘れられない。橋本さんの強靭でやわらかな知をささえていたのは、こんこんと湧いて尽きることのない情だった。三島由紀夫を論じるときでさえ、それは同じだったと思う。




◆特別展「帰って来た橋本治展」
【会期】2024年3月30日(土)~6月2日(日)
    休館日:月曜日(4/29、5/6は開館)
【開館時間】午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)

https://www.kanabun.or.jp/exhibition/19579/


◆図録「帰って来た橋本治展」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(B5判、本文カラー64頁/頒価1,100円)

https://www.kanabun.or.jp/webshop/20012/


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