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若き日の橋本治/馬渕明子【寄稿・橋本治展】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」164号(2024年4月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年6月2日まで〉



韓国・扶余プヨで 1982年5月 右から筆者の母、筆者、橋本治、森川那智子、筆者の父。

馬渕明子・美術史家


 七十年の橋本治の生涯で、私が関わった時間はそれほど長くない。一番濃かったのは学生時代だが、その後は一緒に会っていた皆が忙しくなり、年一~二回の麻雀会で、互いの生存を確認していた程度だ。それでもこの麻雀仲間と一緒に伊豆の民宿に泳ぎに行ったとか、夏に我が家の別荘で過ごしたとか、私の両親が韓国に一年程滞在していたとき押しかけて、ソウルや慶州キョンジュを旅したとか、友人の伊豆高原の別荘に行ったとか、いろんな楽しい時を共有したのだが、時系列的にはごちゃごちゃになっている。杉並区の牛乳屋さんだった橋本さんの実家で麻雀をしたときに、私たちが二階でじゃらじゃらやっているさなか、母上が焼きそばをふすまの外にそっと置いておいてくれたこともあった。家の商売がそうだったからかどうか、我が家で集まるときは、夏だろうが冬だろうが彼は必ず大量のアイスクリームを持参した。

 我がグループの中で唯一人の子どもだった私の息子をとても優しく構ってくれたが、別の友人が息子のために持ってきたアンモナイトの化石について長々と虚実入り混じった蘊蓄うんちくを傾けたので、息子はしばらくはそれが橋本さんのプレゼントだと思いこみ、「アンモナイト橋本さん」と呼んでいた。この時もそうだが、彼は子どもにあることないこと吹き込んだので、息子はそのため大人の言うことには、常に懐疑的になる癖がついてしまった。中学生のとき、国語の先生が「橋本治というとても興味深い小説家がいます」とクラスで代表作を紹介したとき、「もう少しで〈昨日家で麻雀してたよ〉と言いそうになって耐えた」と言っていた。

 こうした付き合いのなかでは、彼は口は悪いが心根が優しいので、皆を不快にさせることなく、バブル期に不動産を買って負ったとんでもない額の借金だって、死に至る類例のない奇病だって、全部自虐ネタにして皆を笑わせていた。

 最近思い出したのが、彼がテレビのクイズ番組で優勝して(とてつもない博識だということがここで露見した)、ヨーロッパ旅行を勝ち取ったとき、たまたま私はパリにいて、一~二日だけだったと思うのだが、観光案内をしたはずだが、どこに行ったのか全く思い出せない。これが一九七一年五月初めのことだということだけは、東京の母に宛てた五月三日付の「今週橋本さんがパリに来る」という手紙の一文で証明できる。その後八月十七日にナホトカ経由の船で帰国し、橋本さん(右端)がもう一人の友人O子(左端)と横浜港に迎えに来てくれた時の写真が最近出てきた。 今は懐かしい「バイカル号」の前である。忙しいのに、律儀に迎えに来てくれたのだ。


バイカル号前で 1971年8月17日 右から橋本、不明(おそらく船の相客)、筆者、O子。


 あるとき、彼は突然編み物を始めた。七〇年代ころだろうか。結構根を詰めて物を作る性格だったので、自分だけでなく友人たちのために独自の価値観で柄を決めて、編んでくれていた。私には「黒地に芥子の花」(「帰って来た橋本治展」図録参照)の柄で、着られなくはないが結構ぴちぴちの小さいサイズで編み上げたので、実のところあまり着る機会がなく、眺めていた方が多い。確かにこのころは瘦せていたので、私のことを相当細いと思っていたのだろう。何でこの柄にしたのか、聞いておけばよかったのだが、少し前に彼は東大美術史の山根有三教授のもとで、琳派の講義などを受けていたからか、そこで琳派風のデザインを考えたのではないだろうか。光琳というよりは酒井抱一のような洒脱さが際立っている。

 長い付き合いだったというノンフィクションライターの柳澤健さんが、「小説宝石」に今年の一月号から連載を始めた。もちろん私の知らないことも多く、また、当時のことをいろいろと聞かれたが忘れてしまっていて思い出せないことも少なくない。しかし柳澤氏の感じたことと私の印象にわずかながらギャップがあることを感じた。それは彼を有名にした東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」が、柳澤氏の目にはノンポリ学生橋本の全共闘に対する冷めた批判的なものに映ったようだが、私はそうではないと思っている。もちろん納得もしないで運動に参加する橋本治ではないし、特にああした団体で群れて行動ができないたちなので、全共闘運動に入り込むことはなかったが、駒場キャンパスであるとき「いたたまれなくてデモに参加したらなんと(全共闘と対立していた)民青のデモだった」という話は、他の友人も聞いていて、彼なりのささやかな共感の表れだった、と私たちは思っている。全共闘シンパには教条的なダサイ男の子ももちろんいて、橋本さんはこいつらは異邦人、と思っていただろうが、反体制的なPANTAと親しくなり、彼の周囲にいた友人たちはことごとく全共闘シンパだったし、彼自身の「男はこうあるべきだ」という社会に対する反発は、絶対にどちらの勢力にも身を置かない道を選び切ったとは言えないものがあると思う。ポスターの高倉健もどきの色男は、どこか古臭いがカッコいい、若者たちの気持ちの寓意として創り出された表象なのではないだろうか。

 文章に編み物にポスターや切絵に、豊富な遺産を遺した橋本治だったが、私たちの中ではあのけッけッと笑いながら体をくねらせて喋る彼が一番なくてはならない存在で、ちょっとした理由で会えないだけで、いつかまたぬっと現れてくるような気がしてならない。


〈機関紙164号 その他の寄稿など〉
【寄稿・橋本治展】
港の見える丘に立って―千木良悠子
【展覧会場から】
幻の「桃尻娘」応募原稿
【寄稿・庄野潤三展】
おいしい。うれしい。よろこぶ。―中島京子
【連載随筆】
火の言葉だけが残った① 芥川龍之介、名作「蜃気楼」―吉増剛造
【所蔵資料紹介48】
尾崎一雄・尾崎士郎交友書簡(3)

◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)

https://www.kanabun.or.jp/webshop/1/

◆神奈川近代文学館公式noteでは、機関紙掲載記事の期間限定公開や講演会・イベントの配信をしています。

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