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ホタルブクロの咲く野へ/橋本麻里【寄稿・古田足日展】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」165号(2024年7月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年9月29日まで〉


橋本麻里・美術ライター、エディター


 目にするたび、心をざわめかせる花がある。本州の山地から平地にかけて広く分布する、ホタルブクロ(キキョウ科ホタルブクロ属)だ。現在では栽培種も普及しており、ベランダに置いた鉢でも育てることができるという。だが四十数年前、古田足日の『大きい1年生と小さな2年生』を読んだ―それこそ小学校一、二年生くらいだった―私にとってこの花は、「はじめてのみち」のはるか先に咲く、特別な存在だった。


 未知の世界へつながる「道」が、多くの子供にとってどれほど不安を感じさせるものか。母が子供の頃、自転車で遠くまで走り回ったという地元の地名は、同じ年頃の私には好奇心の対象ではなかった。この物語の主人公、体は三年生と間違われるほど大きいのに、甘えん坊で泣き虫のおがわまさやと同様、自転車やバス、自家用車で出かけるような先に、一人で歩いていくことなど、考えるだけで背中が冷え冷えするほど恐ろしかった。

 その頃濫読していた絵本や児童文学には、未知の道へ踏み出したばかりに、この世ならざる場所へ放り出され、たいへんな冒険/通過儀礼に巻き込まれる、という話がいくらでもあったからだ。民話や昔話など読もうものなら、そうやって出かけたまま帰ってこない子供さえ珍しくない。読者としてならどんな過酷な冒険でも楽しく付き合えるが、自分自身がそんな目に遭うのは絶対にごめんこうむりたい。「冒険耳年増」に育ってしまった私は、まさやの「大発見」である、「子どもにはね、たいていのみちが、はじめてのみちなんだ」という真理について、「たいていのみち」を回避することで折り合いをつけていた。

 そのまさやが一大決心をして……ではなく、成り行きで「家出」することになる。あのまさやが。通学路に指定された崖の間の道ですらこわいと言っては震え、母に、あるいは喧嘩っぱやいけれど簡単に泣いたりしない、「しっかりした」二年生のみずむらあきよに手を引かれ、やっと歩くことができていたまさやが。

 遠く聳える一本杉を目印に、ホタルブクロが咲いているはずの森へ。見知った道を通り、ついに「あきよもまだとおったことのないみちを、あるきはじめる」のだ。橋を渡り、麦畑を通り抜け、自分の中に湧き起こる「こわさ」に必死で目を凝らし、それが何に由来するのかを分析、理解、解決しながら、一歩一歩先へ進んでいく。土手に登って方向を見定め、農家で道を尋ね、ドブ川に看板を渡しながら。

中山正美画『大きい1年生と小さな2年生』挿絵原画 1970年3月 偕成社 
森のなかを歩いて行くまさや。個人蔵

 『大きい1年生と小さな2年生』が刊行された一九七〇年に、当然スマホなど存在しない。飛び出していく方も、飛び出した子供を探す方も、その心細さ、寄る辺なさは、現在の比ではなかっただろう。それでも目を見開き、周囲をよく観察し、冷静に考えることができれば、泣き虫の一年生でもホタルブクロの森へ辿り着くことができる。ユリーカ!

 基本的に道を歩くだけ。まさやが道中心配していた誘拐にも遭わず宇宙人との接触もない、特に劇的な事件の起こらないクエスト(しかし当事者の子供にとってはまさに「クエスト」なのだ)のリアリティは、それまでより半歩先へ、私の足を進ませる推進力を与えてくれた。たった半歩ではあるが、私にとっては月面着陸並みの前進だ。

 だが、そうやってたどり着いた夢のようなホタルブクロの野原も、翌年には住宅公団の建物、おそらく大規模な団地が建てられることが、物語の中で語られる。まさやが自分の力でドブ川を渡るための橋にした看板こそ、公団の土地であることを示すものだったという、皮肉の苦味が効いている。

 繰り返される喪失に倦み、「はじめてのみち」をたどる労苦や恐怖に立ち向かうことを止めてしまうと、いずれ「二どめのみちも、おもしろい」の恩寵にも見放されてしまう。ともすれば、覆い被さる木の影に不安を覚え、橋を探して川べりを右往左往することになるけれど、再びホタルブクロに出会いたければ、「はじめてのみち」を歩き続けるしかない。

中山正美画『大きい1年生と小さな2年生』挿絵原画 1970年3月 偕成社 
両手いっぱいに、ホタルブクロを持ったまさや。個人蔵


 ちなみに、数十年ぶりに本書を再読して不思議に感慨深かったのが、まさやの家出の直接の契機となった、母親からの叱責の場面だ。童話の本を買ってあげても、漫画の週刊誌ばかり読む、といって、彼女はまさやの本棚から童話の本を取り出し、積み上げていく。その中にまさやの好きだった『ぐりとぐら』の絵本まで入っているのを見て、まさやは泣きながら家を飛び出してしまう。

 『ぐりとぐら』はもはや説明の要もない、中川李枝子(作)・山脇百合子(絵)として、福音館から一九六三年に刊行された名作絵本。『大きい1年生と小さな2年生』の刊行はその七年後だから、こんな風に物語の中に登場しても不思議ではないのだろう。

 それからほぼ半世紀を経た二〇二四年現在、『大きい1年生と小さな2年生』そのものが、私を含む多くの読者にとって、「好きだった」「名作」と思い起こされる存在になっている。入れ子のように『ぐりとぐら』を収めた『大きい1年生と小さな2年生』を、また誰かが子供のための本の中にひっそりと書き込んでいたら、と想像するだけで愉しい気持ちになるではないか。



〈機関紙165号 その他の寄稿など〉
【理事長就任にあたって】
情熱と審美眼―荻野アンナ
【展覧会場から】
「手をつなごう」からの出発
【追悼・三木卓】
「ミッドワイフの家」とお相撲―辻原登
【連載随筆】
火の言葉だけが残った② 漱石、一本の光―吉増剛造
【所蔵資料紹介49】
須賀敦子 父母宛書簡(1)

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