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「ミッドワイフの家」とお相撲/辻原登【追悼・三木卓】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」165号(2024年7月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年9月29日まで〉


辻原登・作家、理事


 ある事情から小説を書くことを断念した私だったが、三十四歳の時、思い掛けもなく結婚して、杉並区上高井戸のアパートに住んでいた頃、偶然、三木卓の「ミッドワイフの家」を読んだ。

 読み終えて、しばらく私は呆然としていた。

 小説の舞台は、赤ん坊が生まれ、死んで行くmidwife(産婆)の家。ここに老齢の産婆(助産師)宮地トラと助手のるい子という若い女性がいる。主人公・語り手は、奇妙な縁でここで育った左右田という名を持つ青年。

 これほどエロチックで生々しい青春小説はあるだろうか。しかも、恐ろしく詩的だ。子宮から宇宙へ、その中で崩壊する原子と時間と、その再生の物語。作品全体に微かな暗い静謐が流れる。

 私は、今ではもう説明出来ないある情念パッションに促されるようにして、目を閉じて一つの物語を妻に口述し始めた。私のデビュー作となった「犬かけて」である。それは次のように始まっている。

「白い黒つぐみというやつは存在しているのだがあまり白いので目にみえないのだ」

 途中で、妻の筆記から自分の筆記に替わったが。
「犬かけて」は一九八五年の「文學界」十一月号に掲載され、翌年下半期の芥川賞候補になった。私は四十歳になっていた。


 三木卓さんと会ったのは、それから二十三年も経った二〇〇八年のことである。

 集英社が主催する「一ツ橋文芸教育振興会」は、一九八一年から毎年、「全国高校生読書体験記コンクール」という活動を行なっていて、三木さんはその選考委員を第一回から務められていた。二〇〇八年(第二十八回)から私が選考委員の一人に加わることになる。三木さん、竹西寛子さん、そして私。

 遂に三木さんとめぐり合うチャンスがやって来た。当日、私はどのタイミングで、私の「ミッドワイフの家」体験と感謝の念を三木さんに伝えるべきか、緊張のしっぱなしだった。

 この文章を書くため事務局に訊ねると、三木さんは三十年間選考委員を続けられ、二〇一〇年に退任されている。すると、三木さんと私が顔を合わせたのは、二十八回~三十回(二〇〇八~二〇一〇年)までの三回だが、事務局の記録によると、二十九回は私が欠席、三十回は三木さんが欠席している。つまり、私が三木さんと顔を合わせたのは二十八回(二〇〇八年)の一回きりである。その時の写真が一枚だけ、事務局にあった!

第28回全国高校生読書体験記コンクール表彰式で、著者(左)と三木卓。 2008年 
写真提供・一ツ橋文芸教育振興会

 では、この時だ。私が勇を鼓して、「ミッドワイフの家」がどれほど素晴しい小説で、私の文学上の起死回生、〝産婆役〟を果たしてくれたか、感謝と崇敬の念をお伝えしたのは。


 私は大相撲の熱烈ファンだが、三木さんは「かまくら春秋」の連載「鎌倉その日その日」三百四十九回(二〇二三年十一月号)で、「お相撲に夢中」を書いている。同じ静岡県出身の熱海富士の活躍に大きな楽しみを見出している、と。

 昭和十五年頃、大相撲巡業が満州の大連に来た(大陸場所)。これは大事件で、見逃せない。家族みんなで見に行くことになった。しかし、三木さんのお母さんが、お化粧やら着物やらに手間取っているうちに遅くなり、「やっと出かけていくと、もう夕方もおそくて、野原の一角から、打ち出しのタイコの音が聴えて来て、間にあわなかった。ああくやしい」と慨嘆。「水入り、なんてこのごろ見ないなあ」が結びである。

 もっとお話ししたかった。〝お相撲〟の話も。

 遠くから打ち出しのタイコが聴こえる。ああ、くやしい。 



〈機関紙165号 その他の寄稿など〉
【理事長就任にあたって】
情熱と審美眼―荻野アンナ
【寄稿・古田足日展】
ホタルブクロの咲く野へ―橋本麻里
【展覧会場から】
「手をつなごう」からの出発
【連載随筆】
火の言葉だけが残った② 漱石、一本の光―吉増剛造
【所蔵資料紹介49】
須賀敦子 父母宛書簡(1)

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