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火の言葉だけが残った② 漱石、一本の光/吉増剛造【連載随筆】

※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」165号(2024年7月15日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈連載終了まで〉


題字・筆者

吉増剛造・詩人


 芥川龍之介が驚いた、漱石の〝稲妻いなずまに折れて〟(夏目漱石「永日小品・暖かい夢」新潮文庫『文鳥・夢十夜』九十九頁)について、いますこし……。

 〝稲妻いなずまに折れて〟には遠くて静かなそうして幽かな物音がする。〝遠くて静かな幽かな……〟と表現に困惑をしてふっと綴ってしまっていたのだが、もしかすると、次に引用をしてみる漱石の、名作というのよりも神品とさえいってみたい作の、心の描線、……なにか澄んだ楽譜以前の楽譜のようにも感じられるし、漱石の驚きがあきらかに感じられる、火のようなもののかさなり、あるいは心の純粋さがたしかに伝えられてくる、そのためであったのかも知れなかった。


 よく見ると足が一本しかない。……いくら見ても足は一本しかない。文鳥はこの華奢きゃしゃな一本の細い足に総身そうみを託して黙然もくねんとして、籠の中に片附いている。(「文鳥」新潮文庫二十頁)


 〝足が一本〟が漱石のペンにもみえるし、引用終りの〝総身〟〝黙然〟〝片附いて〟は漱石自身の絵なのだ。絵なのだと書いたのだけれども、なんと形容をしよう、名人が不図彫った、あるいは投げだした〝棒のようなもの〟それが黙然と、一本立っているのだ。これはもう、説明の仕様のないことなのだけれども、漱石の作中に、誰のとも知れない不思議な声が、そうか、これが〝稲妻いなずま〟あるいは〝稲妻いなずまに折れて〟につながるものなのかも知れない〝「覚えていろ」〟(「永日小品・蛇」新潮文庫七十二頁)の、その声根の深さ、不思議に近い、しかし、わたくしが次に引用する〝文鳥のよろこび、嬉しさ〟に添うようにして、万物の、そう、名辞以前の〝棒のようなもののよろこび〟と名付けて置きたい。虚子は〝棒のごときもの〟といったのだったが、……。


 ペンを持ったまま縁側へ出てみた。すると文鳥が行水を使っていた。
……文鳥は軽い足を水入の真中に胸毛むなげまでひたして、時々は白い翼を左右にひろげながら、心持水入の中にしゃがむ様に腹をし附けつつ、総身の毛を一度に振っている。そうして水入のふちにひょいと飛び上る。しばらくして又飛び込む。水入の直径は一寸五分位に過ぎない。飛び込んだ時は尾も余り、頭も余り、脊は無論余る。水にかるのは足と胸だけである。それでも文鳥は欣然きんぜんとして行水を使っている。(「文鳥」新潮文庫二十一、二十二頁)


 漱石の〝欣然きんぜん〟を、〝眼尻めじりと口元にはわらいきざして〟に近く、朧ろにだが、不図、文鳥の声に思いが及んでいた。〝ちち〟とも〝千代〟〝千代々々〟ともと。

 ここは、筆者にもけることのない幻視、幻聴なのだが、何処かのお祭りに〝お千代〟というお人形があって、そのつかわれ方に、奥深い声、……そして神的なるものの仕草の印象があった。何だったのだろう。「能」や「能面」には覚えたことのない、そう、なにか〝欣然きんぜん〟が〝生まれ出ずるときの喜こびのようなもの〟が伝えられ、その〝御千代〟に驚いていたことと、漱石の〝ちち〟〝千代〟〝千代々々〟が襲ねあわされての漱石読みだった。おそらく、そこに、わたくしなりの〝原エクリチュール〟あるいは$${\textit{poésie}}$$を読もうとしたらしい。

 さて、〝稲妻いなずま〟に戻ります。

 こんなに重大で大切な個処にあらわれた〝一本の光〟だったとは、……。


 ……床の上に釣るした電気燈がぐらぐらと動いた。硝子ガラスの中に彎曲わんきょくした一本の光が、線香煙花せんこうはなびの様にきらめいた。余は生れてからこの時程強く又恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟とっさ刹那せつなにすら、稲妻いなずまひとみに焼き付けるとはこれだと思った。時に突然電気燈が消えて気が遠くなった。(夏目漱石「思い出す事など」新潮文庫二百七頁)


 ここまでご一緒して、難路を辿って来て、この〝一本の光〟をあの文鳥が、〝千代〟とないているように、聞こえている。




〈機関紙165号 その他の寄稿など〉
【理事長就任にあたって】
情熱と審美眼―荻野アンナ
【寄稿・古田足日展】
ホタルブクロの咲く野へ―橋本麻里
【展覧会場から】
「手をつなごう」からの出発
【追悼・三木卓】
「ミッドワイフの家」とお相撲―辻原登
【所蔵資料紹介49】
須賀敦子 父母宛書簡(1)

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