見知らぬ地図、あるいは燃えつきぬ地図/恩田陸【寄稿・安部公房展】
※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」166号(2024年10月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2024年12月8日まで〉
恩田陸・作家
安部公房の小説には、しばしば写真、書類、新聞記事、地図といった、ビジュアル素材が登場する。それはまさに、近年よく聞くようになったモキュメンタリー(mockumentary・フィクションをドキュメンタリーの手法で描く)を先取りしていた、ともいえる。
彼のカメラ好き、写真好きとも少なからず関係しているだろう。ぎりぎりまで寄ったレンズの捉える細部の生々しさと、引いたカメラの、フレームが消えた空間の茫漠とした虚ろさ。その著しい落差が彼の小説を作っているのだ。
近くで見る限り、彼の小説世界はそれらしい事実が提示され、リアルであるように見える。
『砂の女』で、主人公が目にする小さなハンミョウや、八分の一ミリメートルという砂そのものの粒。しかし、彼が閉じ込められた砂丘は、距離感をなくし、時間の感覚をも失わせる、サラサラと崩れてはとめどなく流れ落ちる、巨大な無の世界だ。
あるいは、『燃えつきた地図』で興信所の男が目にする調査依頼書や新聞記事。それらは手で触れることができるけれど、彼が彷徨う巨大な団地やその周辺の殺伐とした市街地は、ただの記号でのっぺりとしていて、記憶の中に定着していかない。
昨今、モキュメンタリーという形式が流行るのはなぜか。
それは、フィクションにとって「リアリティがない」と言われるのがいちばん「いけないこと」になってしまったからではないかと思う。もっとも、今では「リアリティ」という言葉自体が変容してきている。近年、「リアル」であると思い込んでいたこれまでのメディアが、必ずしも確かなものではなく、フェイクニュースやポストトゥルースなどという矛盾を抱えた単語やAI技術の進化とあいまって、いよいよ不確かに、より個人的な感覚に近くなっていて、「リアリティ」の定義そのものが揺らいでいる。隠された事情、隠された真相、誰かに騙されていて、誰かが得をしていて、「実は」「ホントのところは」「公になっていないけれど」違うのだ、と。
安部公房は、小説家として登場した時から、ずっと「リアリティ」の定義について根源的な疑いを持っていたのだろう。ゆえに、モキュメンタリーという形式と共に、現代人の根深い疑念をも、遥かに先行して体現していた。
現実を現実として認識したい、存在を存在として実感したい。
彼の小説には、そういう強迫観念が常につきまとっている。今自分がいる場所が悪夢の中なのか、現実なのか。内側にいる限り、それを確認することは難しい。
「誰だって、どんな健康な人間だって、自分の知っている場所以外のことなど、知っているわけがないのだ。誰だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められていることに変りはないのだ。」
「救助を求める電話に応じて、やって来る、救いの主が、自分の地図を省略だらけの略図にすぎないと自覚させる、地図の外からの使いだったとしたら……その人間もまた、存在しながら存在しない、あのカーブの向うを覗き込んでしまったことになるのだ。」(『燃えつきた地図』)
ならば、外側へ。今の居場所を特定するためには、「外側」に出て、写真なりなんなりで世界を「固定」する必要がある。そのためには、世界とのあいだに何かを一枚挟まなければならない。『他人の顔』の仮面、『箱男』の段ボール、そして、カメラのレンズ。
「○○越し」に見ることによってのみ、現実を認識できる。それは、現代の我々の不安をもまた、とっくに予見していた。すぐそこに、目の前に存在しているのに、まずはスマホのカメラを向けて、撮影しファイルの中に「固定」しないと、その存在を、現実と認識できないように。
スマホの地図を頼りに目的地に向かう時の、どこか漠然とした不安。目的地までの経路を示され、画面の中の地図と現実の風景とをすりあわせつつ道をゆく、無数の人々が交差するのを眺めていると、既に我々は既知の地図すら持たぬ、地図を燃やすこともできない時代を生きているのだと思わずにはいられない。
〈機関紙166号 その他の寄稿など〉
【寄稿・安部公房展】
辺境とクレオール―沼野充義
【展覧会場から】
仮説の文学
【寄稿・開館40周年に寄せて】
来訪のすすめ―宇佐見りん
漱石遺品寄贈の経緯―夏目房之介
畏れの場―藤沢周
【連載随筆】
火の言葉だけが残った③ 赤い火=志賀直哉―吉増剛造
【所蔵資料紹介50】
須賀敦子 父母宛書簡(2)
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