火の言葉だけが残った③ 赤い火=志賀直哉/吉増剛造【連載随筆】
※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」166号(2024年10月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈連載終了まで〉
吉増剛造・詩人
夏休みの思い出の残り香のせいなのだろうか、不図、源実朝の名歌が、心に浮かんだ。
玉くしげ箱根の海はけゝれあれや二山にかけて何かたゆたふ
〝たゆたふ〟は〝ゆらりと動きただよう〟〝けゝれ〟は、東国方言の〝こゝろ〟。何故この一首が、心に浮かんで来たのか、わたくしにも判らない。おそらく、小文の予兆の燭火のようにして浮かんで来たのだと、思われる。
しかし、実朝の〝何か〟あるいは〝たゆたふ〟に誘われて、……と同時にこれから、少し触れようとしている、フランツ・カフカの「城」やカフカが破棄を命じた、……そして常 しえ $${\textit{or}}$$ 永久に未完成の作品の火 $${\textit{or}}$$ 火種のことを考えて、……特に『城』(新潮文庫、前田敬作氏訳)を、夏休みの宿題のようにして、読み継いでいるとき、ほとんど嘔吐にも似た、未了感 $${\textit{or}}$$ 途上感に襲われていた。〝夏休み〟は、本当に終るのだろうか、……。
フランツ・カフカは、次のように書いていた。書きつつおそらくカフカも驚いている、この〝素通りする視線、……〟に。
……それは、自分が観察する対象にまともに向けられず、わずかばかり、ほとんど気づかないほどだが、それでもまぎれもなく対象のそばを素通りしているのだった。(フランツ・カフカ『城』新潮文庫、前田敬作氏訳 二百七十九頁、傍点引用者)
〝そばを素通り〟する視線だとは、……。また、別の頁で、カフカは次のようにも、書く。
……あの沈んだような眼つき――(中略)は、わたしたちの頭の上を通りこしていってしまうので、こちらは、おもわず文字どおりあの子のまえに頭を下げるような格好になってしまうのです。(同、『城』三百十四頁)
カフカの書く、仕草、身体の働き方に、わたくしたちも、それとは確と、覚知し得ないまでも、「宗教」を考えなくとも、諾うことを、僅かな小声で〝$${\textit{yes}}$$〟という声を聞くのではないだろうか。身近かなものの空気や光が、……そして言葉を読むこと書くことが、おそらく〝別の光、……〟に曝される、……ようになって来ている。カフカの「変身」も、ベッドと掛ぶとんが問題なのだ。
芥川龍之介に、稀らしい〝木登り〟の映像が残されている。やにわに、自家の樹木に登りはじめた龍之介、……。その心の謎は、おそらく、芥川龍之介が感嘆、おく能わず、……〝心の樹木、……〟とした、志賀直哉の名作「焚火」の〝木登り〟にあったようだ。
さて、その名作「焚火」の掉尾を。
先刻から、小鳥島で梟が鳴いてゐた。「五郎助」と云つて、暫く間を措いて、「奉公」と鳴く。(中略)
Kさんは勢よく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛つた。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行つた。それが、水に映つて、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了ふ。そしてあたりが暗くなる。それが面白かつた。皆で抛つた。(『日本現代文学全集』四十九 講談社刊 昭和三十五年より)
志賀直哉のこどもの裸の眼を通る、赤い火の粉の薪がわたくしたちのそばを通って、「奉公」という声も、どこか遠くで「小僧の神様」が口にしているようにも聞こえて、あるいは〝御千代〟と谺をしているようで、……とっても、うつくしい。志賀直哉の裸の眼=視線が抛られているのだ、ここに火の眼は辿り着いていた。実朝の〝何か〟も、この火のこころで、あるいはあったのかも知れなかった。
〈機関紙166号 その他の寄稿など〉
【寄稿・安部公房展】
見知らぬ地図、あるいは燃えつきぬ地図―恩田陸
辺境とクレオール―沼野充義
【展覧会場から】
仮説の文学
【寄稿・開館40周年】
来訪のすすめ―宇佐見りん
漱石遺品寄贈の経緯―夏目房之介
畏れの場―藤沢周
【所蔵資料紹介50】
須賀敦子 父母宛書簡(2)
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