畏れの場/藤沢周【寄稿・開館40周年】
※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」166号(2024年10月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2025年1月14日まで〉
藤沢周・作家・理事
いかにして集めたのか。稀覯の直筆原稿に、作者が秘蔵していた宝物。こんな人たちと交流していたのかと目から鱗の写真群。愛しき人への手紙。愛用していた喫煙具や衣服があるかと思えば、誰にも見られたくなかったであろう日記までも。
神奈川近代文学館では全国的にも稀有なる規模の文学展が毎回催されるが、その収蔵、収集の技と努力に唸らされ、文学愛好者ならばこれを見逃す手はなかろうと誰もが思うはず。己れも然り、ではあるのだが、「さあ、行くか」と上げた腰を、固く目を閉じながらまた下ろしていることが時々ある。じつは、これには理由があるのだ。
「生誕八十年・没後三十五年記念展 三島由紀夫ドラマティックヒストリー」(二〇〇五)。その日もいそいそと神奈川近代文学館に向かったはいいが、会場に足を踏み入れたとたんに、なにやら頭の中の地軸が狂い始めた。自らに絡みついてくる幾重もの空気の層。それらとともに、古い原稿群や遺品などから、何本もの触手が伸びてくるように感じられる。「これは文豪から発する圧か? 捕まるまいぞ」、と胸中念じながらも、創作ノートや夥しい手書き原稿、演技めいたモノクロームの肖像写真、筆速のある野太い揮毫、石膏像などを見て回る。おそらく三島ファンならば垂涎の数々であろうが、すでにその時点で血圧と脈拍が上がり始めていて、脂汗を一人、額に滲ませていたのである。
「やばい、やばいな」と、文豪の息遣いや情念にやられているところに、遺作となった『豊饒の海』のラスト「天人五衰」の最終回末尾原稿があった。手書きの日付は「昭和四十五年十一月二十五日」。つまりは、三島が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決したその日である。ノンブルは140。「山へみちびく枝折戸も見える」から「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。………」の最後の行まで、じつに丁寧な文字。そして、「『豊饒の海』完。」とあった。口元を汗ばんだ手でおさえながら屈み込んで、その最終原稿を凝視していたが……ふと、「これは……⁉」と息を呑んだのを覚えている。今まさに死のうとしている人間が書く文字ではない。一様にわずかな右上がりを見せる文字は、何か元原稿を見ながら、何枚も書き写したかのようなのだ。
この遺稿は自決当日用に周到に用意して書かれたものではないのか。そう思えた時、恐ろしいほどの作家の自意識と演出に眩暈が襲ってきた。谷崎潤一郎が『瘋癲老人日記』で、「死ンデモ予ハ感ジテ見セル」と書いたごとく、三島の最終回原稿からは、「死んでも私は表現して見せる」という、せせら笑う声が聞こえてくるようだった。
慌ててその場を離れ、会場の外に向かおうとしたのだが、目の端に朦々と念を発しているものを感じ、短い視線を投げれば――。「楯の会」の制服。三島が着ていたものかは分からないが、それに思わず一礼して、覚束ない足取りで外に出たのだ。ほんの一時間あまりの拝観で、数キロ痩せてしまったのではないかと思うほどの憔悴であった。
それ以来、文学者たちの抱える情熱や狂気、地獄、あるいは偏愛を、こちらが受けとめるだけの力量ある書き手にならぬかぎり無理だと悟ったわけである。それほどに文学展とは、物書きたちの執念と熱と業で渦巻いている。刺し違えるか、共に死んでもいいか。その覚悟がないと、胆力のない私などには難しい。文学展とは自分にとって畏れの場でもあるのだ。
〈機関紙166号 その他の寄稿など〉
【寄稿・安部公房展】
見知らぬ地図、あるいは燃えつきぬ地図―恩田陸
辺境とクレオール―沼野充義
【展覧会場から】
仮説の文学
【寄稿・開館40周年】
来訪のすすめ―宇佐見りん
漱石遺品寄贈の経緯―夏目房之介
【連載随筆】
火の言葉だけが残った③ 赤い火=志賀直哉―吉増剛造
【所蔵資料紹介50】
須賀敦子 父母宛書簡(2)
◆機関紙「神奈川近代文学館」は、当館ミュージアムショップまたは通信販売でご購入いただけます。(1部=100円)
https://www.kanabun.or.jp/webshop/1/
◆神奈川近代文学館公式noteでは、機関紙掲載記事の期間限定公開や講演会・イベントの配信をしています。
※記事・写真の無断転載はご遠慮下さい。