漱石遺品寄贈の経緯/夏目房之介【寄稿・開館40周年】
※本記事では、機関紙「神奈川近代文学館」166号(2024年10月1日発行)の寄稿を期間限定で公開しています。〈2025年1月14日まで〉
夏目房之介・マンガ・コラムニスト
詳しいことは知らないが、戦前のことで、漱石の遺品は長男・純一(私の父)に相続された。しかし、祖母鏡子も父も危機管理能力はからきしだったので、非常に危なっかしかったのではないかと推測する。実際、時々遺品が持ち出され、売られたりした。父はそれを探し出して買い戻す、ということもあったらしい。
やがて遺品は銀行の貸金庫に収められた。展示会出品などで貸し出されたり、父が客に見せたりするたびに、遺品は貸金庫から出され、またしまわれた。それをするのは、母だった。母はそのたびに大きな不安を感じていたと思う。父は、遺品を自分の所有物ぐらいに思っていたかもしれないが、母や姉や私はそれ以上に大きな負担を感じていた。
私は「そろそろしかるべき所に委託したらどうか」と父に言ったことがある。父は「考えておく」と答えただけで、考えたまま九十一歳で亡くなった。遺品をどうするかは、母も姉も私も一致して、どこかに寄贈することをすでに決めていた。父の生前から交流があって信頼のおける神奈川近代文学館にお願いして、現在はそこに保管していただいている。そのとき、家族一同心底ほっとしたのをおぼえている。
父の死後、一冊の遺品管理ノートが見つかった。さすがに、その程度のことはしていたのかと、一瞬感心したが、中には何も書かれていなかった。やはり、そういうことをする人ではなかったのだ。
漱石の遺品が家にあるというと、多くの人は「うらやましい」と思うかもしれない。しかし、さすがに漱石遺品となると遺族の不安と緊張は尋常ではなく、とにかく早くどこかちゃんとした所に託したいとしか思わなかった。寄贈したときは、まことにすっきりした気分で、肩の荷が降りた。私たちにとっては、じつに重いお荷物だったのである。
この国で漱石という存在は、もはや国民の文化的な共有物である。一遺族が専有すべきものではない。「漱石」という情報は誰でも、いかなる形でも利用できるものとするべきだと、私は考えている。以前、遺族の一部の人たちが、他の遺族の承諾も得ず「漱石財団」という組織を立ち上げようとしたことがある。そのときも、私は他の遺族や出版社、報道機関などに連絡し、この企画に大反対して、解散させた。
従姉妹にあたる、松岡譲の長女である松岡陽子マックレインさんと日本で偶然お会いしたとき、「あなたがしっかりしていてくれて本当によかったわ」と言ってくださった。陽子さんは米国で亡くなり、その言葉をいただいたのは、その直前だったと記憶する。この言葉は、私にとって漱石遺族としての自分の役割をほんの少し果たせた気持ちにさせてくれた。ありがたく嬉しかった。
漱石の遺品は、神奈川近代文学館のような公共施設に預けられ、公開されるのが適切だと思う。神奈川近代文学館には深く感謝している。同館にはたまに展示を拝見しに行く。最近では「新青年」展(全巻を収蔵しているという)や「橋本治」展を観た。そのつど、漱石遺品の常設展ものぞく。開館四十周年を心からお祝いする。
〈機関紙166号 その他の寄稿など〉
【寄稿・安部公房展】
見知らぬ地図、あるいは燃えつきぬ地図―恩田陸
辺境とクレオール―沼野充義
【展覧会場から】
仮説の文学
【寄稿・開館40周年】
来訪のすすめ―宇佐見りん
畏れの場―藤沢周
【連載随筆】
火の言葉だけが残った③ 赤い火=志賀直哉―吉増剛造
【所蔵資料紹介50】
須賀敦子 父母宛書簡(2)
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